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佐伯香也子のブログ

官能小説でやりたいこと

1966年に23歳で 芥川賞を受賞なさった丸山健二氏は、以来ずっと、いわゆる文壇とは一線を画し、現在も力のみなぎった作品を発表し続けていらっしゃる。
その丸山氏が昨年(2013年)、眞人堂とともに「丸山健二文学賞」というものを創設なさった。
権威臭をいっさい排除した、文学という素晴らしい芸術のための新しい鉱脈を発掘しようとする真剣勝負の文学賞である。

http://shinjindo.jp/contents/maruyama_award.html

「丸山健二文学賞宣言2013」には手厳しい言葉がたくさん並んでいる。
いや、そればっかりと言ってもいいw
しかし、何度もうなずいてしまうほど説得力がある。
一部を抜粋してみる。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
そもそも文学という行為は、人間という特殊な存在が複雑怪奇な生き物であることから発生し、際限なく派生する無限の感動を言葉のみに頼って捉えるという、極めて難しく、しかも極めて地味なことである。
 その反面、他のあらゆる芸術と比較しても申し分のないほど奥深い世界であり、そしてこれ以上は望めないほど人間的な営みであって、数千年を経ても、まだ入り口の段階をさまよっている程度の進化と深化なのだ。
 つまり、しっかりと本腰を入れて、身震いを禁じえないほど真剣に没頭するだけの価値が充分過ぎるほどあるということなのだが、しかし、現実はどうかというと、甚だ残念ながら、ほとんど先へ進んでいないどころか、逆行しているという体たらく。
(中略)
かつて、「文学なんて、所詮は女子どものおもちゃにすぎない」などという差別的な評価を浴びせられることも、確かにあるにはあった。だが、そう揶揄されても仕方がないというか、ぐうの音も出ない状況にあることは否むに否めない事実なのだ。
 一理も二理もあるそうした手厳しい非難は、劣等意識の裏返しであることが見え見えのナルシシズムなど相手にせず、もっともっと上等な、人生にも精神にも深い感銘と影響を与えてくれるような、自立したおとなのレベルの高い読み手の眼力に耐え得るような、そんな作品があってもいいのではないかという、悲痛な叫びであった・・・
(中略)
文学そのものまで死んでしまったわけではない。
 本物の文学はそんなやわなものでは断じてない。まだ手つかずの文学の鉱脈が無限に残されていて、才能があってやる気のある、まだ見ぬ書き手の前にどっしりと横たわり、掘れるものなら掘ってみろと挑発しつづけているのだ。
 これまでの文学は、だらしのない生き方を好み、そのなかにこそ芸術的なる核が潜んでいると信じこむ自分を唯一の売り物にしながら、また、あまりにも夢見がちな、恋愛の実体験に恵まれない女たちと、そうした女に限りない近い、恋愛至上主義に毒された男たちの黄色い声援に煽られながら、素手で簡単に掘れるところを掘ってきただけなのだ。
 そして、そこは掘り尽くされた。
 ところが、これまでのビー玉やビーズ細工のごとき代物などとは格が違う、めくるめく本物の宝石を眠らせている鉱脈が、いたるところで、これまでの書き手とは性質も才能もまったく異なるタイプの、要するに、安っぽい情緒のみの海にけっして溺れない、人間と人間を取り巻く環境を果敢に見極め、本気で挑む書き手の登場を待っているのだ。
(中略)
ちなみに、言葉の発信者としての自身の腕が現在どのレベルに達しているのかを、さらには、ナルシシズムに溺れることなく人間という存在の核心のどこまで肉薄しているかを、客観的に認識し、正しく把握している書き手こそが真の才能の持ち主である。
(中略)
文章の恐ろしさは、真剣に書けば書くほど当人の性根がそっくり出てしまい、隠しおおせない点にある。
 よしんば駄目な人間を描くにしても、駄目な人間であっては描けないのだ。このことをくれぐれも忘れないでほしい。

 小説家にはあるまじき、かなり柄の悪いもうひとりの私が、先ほどからさかんにこんな言葉を発している。

「さあ、かかってこいや!」

丸山健二
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


官能小説は、通常「文学」には入れてもらってないが、丸山氏が述べられている停滞または下降の現状はそっくりそのまま当てはまるように思う。
「女子供のおもちゃ」ではなく「男のオカズ」である官能小説も、やはりこれまでの鉱脈は掘り尽くされていると言っていいのではないだろうか。

「めくるめく本物の宝石を眠らせている鉱脈」ならぬ「めくるめく本物の官能を眠らせている鉱脈」につるはしの先を深く食い込ませ、渾身の力を込めてきらめく真の快楽を掘り起こしたい。
そうすれば「男のオカズ」に留まらない、女性にも共感していただける悦楽を描き出すことができるのではないかと、新人ながらも思っているのだ。

だから、読者からいただいた、「久しぶりに最初から最後まで興奮、そして考えさせられました。そんなことを感じたことは今までのSM小説では正直ありませんでした」「ほんとうに、久しぶりに、脳みそが、『ドクン・ドクン』と、腫れるような感覚になる小説に出会ってしまったので、報告したくなりました」「甘美な拷問での描写が妄想をかき立てられ、それはそれは大変なことに(笑) 終わり方が、ああなんかわかるなぁと・・・(女性)」等のお言葉は、本当にうれしかった!

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プレイの発想

「作品の着想はどこから得ているのか」「書くために現場取材はするのか」というご質問を、Twitterでいただいた。
文庫本のゲラの著者校正が終わったばかりで、思考が散漫になっているが、少しだけ書いてみたい。

Twitterでの回答とダブるが、現場取材はまったくしない。
ショーは2回しか見た事がないし、SMバーに行ったのはたしか3回ほど。
フェチ・フェスの類いには、一度も参加した事がない。

小説を書くために必要なことは、そうしたところとはまた別の場所にあるのだ。

なぜSM的行為で快感が得らるのか。
人間が性的快感を得ようとする理由は何か。
性の快楽は人に何をもたらすのか。
男とは何か。
女とは何か。

上記のような事が理解できていれば、この目的のためにはこれがいいというふうに、自然とプレイが浮かんでくる。
人物設定をして、物語の舞台を決めれば、主人公たちが勝手にプレイを始めてくれる。
私はその物語世界に深く入り込み、登場人物と一体になって、彼らの経験や感情を言葉に置き換えていけばいいのである。

もちろん、プレイ画像や実践なさっている方々のお話などは参考にさせていただくが、それをそのまま写し取って書くわけではない。
「物語」という種子を育てるための肥料のようなもので、よりいっそうのリアリティを出すための助けにはなっても、そこから主題を思いつくことはまずない。
むしろ哲学書や心理学関連書籍のほうが、ずっと役に立つのである。

しかし、これは私の場合であって、他の官能系作家の方々がどうやって物語を紡いでいらっしゃるかは分からない。
多分、私のやり方はかなり特殊なのではないかと思う。




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古いSMの形

SMの世界に足を踏み入れて驚いた事は色々あるが、その一つに「SM主従は恋愛関係とは違う」という言い方がある。
主にS男性が使っている言葉だが、M女性でもこの言い方をする人がいる。
では、どんな関係かというと、コーチとスポーツ選手、あるいは保護者と被保護者のようなものだというのである。

これを聞いたとき、私はひどくがっかりした。
そして同時に、強い怒りが湧いてきた。
そんな中途半端な間柄で、最大の快楽なんか得られるのかと思った。

これは、「なんのためにSMをするのか」ということと、「女性が求める快楽とは何ぞや」という大きな命題にかかわってくる。

これを解き明かしてゆくと、「コーチと選手」「保護者と被保護者」という程度では、到底女性は満足できなということがわかってくる。
私の最初のがっかりも怒りも、それが理由だった。

SM界は戦後長いこと男性によってその形が作られ、マニュアルがわりにいくつもの言説が伝えられてきた。
それを担ったのは、カリスマと呼ばれるようなS男性たちだ。

しかし、そこにはどれだけ女性の真の欲求が盛り込まれていたのか。
どれだけ女性を理解した上での言説だったのか。
性について女性が言葉をもたない時代にあって、公平な価値観の構築というのはまず不可能だったのではないだろうか。

女性にとって窮屈な古いSMの形は、今こそ改めるべきだ。
充分な言葉をもっている女性ばかりではないし、自分勝手なM女性も多いから、そう簡単な作業ではないと思う。
しかし、できるところから始めないとSMの本当の素晴らしさが見失われてしまう。
これは男性たちにとっても、重大な損失だろう。

虫の喰った古い扉を蹴り破り、苔とカビだらけの壁をこの手で突き崩す。
そういう覚悟で、私はSM小説を書いてゆきたいと思っている。



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S男性の迷惑な発言

いわゆる精神的Sだと自称したり、自分のサイトにたくさん人を集めてプレイや奴隷の多さを自慢したり、オフ会をしたりして一種のカリスマ的存在になっているS男性たちの発言には、とても問題が多い。
とくに、彼らが迷えるM女性相手にする説教はお話にならない。
その論調はだいたい似通っている。

自分のわがままを捨て、主の希望が、そのまま自分の願いとなるような奴隷にならなければならない。
奴隷は主に喜んでもらえることをする。
「できない」と思うことでも一所懸命がんばる。
その姿を見て、主は奴隷を可愛いと思うようになる。
SMは恋愛とは違う。主の愛を欲しがってはいけない。
見返りを求めず、心から奉仕することが奴隷の勤めである。
主の愛を得たければ、まず自分から真心を捧げて尽くせ。
自分の願望がかなえられなくても、思うように会えなくても、主を恨んではいけない。
それも含めて耐えるのがしつけの良い奴隷というものである。


こんな言説をいつまでも許しておくから、救われないM女性が絶えないのだと思う。
M女性には「見返りを求めない愛」を要求するくせに、自分からは見返りを求めまくっている。
しかも、ご褒美に与える「主の愛」たるや、「俺の都合のいい時だけ会ってやるよ」という程度のものでしかない。

だが、迷いのあるM女性というのは、はっきりした男らしい言い方に弱い。
「お前の精神状態は今こうなっている」とか「奴隷とはこういうものだ」といったような断定をしてもらうと、それだけで安心して信頼してしまったりする。
しかし、根本的にまちがっているので、すぐにまた壁につきあたる。
主を持っても、いっこうに心が安定しないM女性が多いのはそのせいだ。

また、自分を捨てて誰かを受け入れたくてしょうがないという屈辱系のM女さんも、もちろんこういった言葉に弱いだろう。
依存傾向の強い人にはまた別の理由があるが、性癖としての屈辱系の女性たちは、最初から男性に服従する自分が大好きなのであり、そういう生き物でありたいと強く願っている人たちなのだと思う。
だが、そういうM女さんたちでさえ、だんだん「こんなのの言う事を聞いていても、いい事は何もないな」と気づいて去ってゆく。

なぜなら、説教Sたちの言うSM主従の先には何もないからだ。
早くて数週間、よくもっても二〜三年で関係は消滅してしまう。
M女さんの状況を丁寧に追っていけば、それが分かる。

ただ、ここで判断を難しくしているのは、実は、服従や奉仕の真の意味を見いだしたM女性は、たしかに彼らの言うとおりの奴隷になるということなのだ。

しかしそれは、しっかりした土台があってのことで、それ自体はM女さん自身が自分で考え、築いてゆくものだ。
主の調教というのは、たんなるきっかけにすぎない。
それを強制されて、M女性は初めて自分と向き合い、なにが自分を阻害しているのかを理解し、乗り越え、強く美しくなってゆくのである。

そうした過程もなしに、うわべだけ形を作ってやってみたところですぐに崩壊し、M女性はもっと深い闇に迷い込む。

S男性が示すべきは、結果としての「しつけの良い奴隷の姿」ではなく、そうなるためにはどうすればよいかということではないのか。
絶対服従の先には何が待っているのか。盲目的に従おうとするM女性が求めているのは、本当はなんなのか。
SMの持つ豊かな可能性をイメージし、そこへM女性を導いてやるために、自分は何ができるのかを、真剣に考えることなのではないのか。

M女が従順な奴隷となって主の責めをすべて受け入れるのは、主から愛してもらうためだというような寝言しか言えないのなら、説教なんか即刻やめるべきだろう。
 
だいたいこういう説教S男性は、女性のことがわかって言っているわけではない。
ここは何度主張してもし足りないくらいだが、自己流でたまたまうまくいったことを、なんの裏付けもなしに語っているにすぎないのだ。
一昔前の戸塚ヨットスクールみたいなもので、場合によっては効果的に働くこともあるが、すべてに応用できるわけではない。

ちょっと心理学や哲学を学べば、こうした言い方がある種のM女性の心をますます深く傷つけ、自分を見失わせるとわかるはずだ。
現に、この世界へ入ったばかりの私はひどく傷つき、生きる気力を失うほど落ち込んだ。
あっちでもこっちでも見かけるこうした言い回しに打ちのめされ、S男性というのは、女性を自分の型にはめる事しか考えず、その心をズタズタにすることを目的としている人たちなのだと思った。

女性は、男性よりもはるかに複雑な心理をかかえている。
自分を生きづらくしているものの正体に気づける人はまだいい。
心理カウンセラーの助けを借りてさえ、なかなか認められない人もいる。
まして、それを解消し、乗り越えていくのは自分にしかできないことで、その力を持っている人はそんなに多くないのだ。

それを、専門家でもないただの一般人が解決できると思うほうがどうかしている。
難しいところは全部M女性に丸投げしているから、そんなおめでたい錯覚がうまれるのだろう。

知性や教養の支えがない経験智のみの説教は、害毒になることのほうが圧倒的に多い。
特に性的なことで女性に説教しようとする男性は、よほどの勉強が必要だ。
「それは誤解だ。自分だってM女性にしあわせになってもらいたいと思っているのだ」
というのなら、もっと日本語の表現力を磨き、誤解の生じない文章を作るべきだろう。

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エネルギーワークとしてのSM

長い間、性について語る事はタブーとされてきたため、その素晴らしい可能性が知られずに来た。
だが、哲学用語の「エロス」は「生=性」の意味で使われるのであり、性エネルギーは、もともと活力の源である。

身体の隅々にまで張り巡らされたエネルギー脈の集積センターを「チャクラ」というが、性エネルギーはその一番下の第一チャクラ。つまり、会陰の部分に存在している。
これが、体の中心にある中央管を駆け昇って、頭上の第七チャクラへぬけてゆく状態がエクスタシーである。

性的絶頂を経験した事のある女性なら誰でも知っているだろうが、かなりすっきりする。一つには、エネルギーのつまりがそれで取れ、細胞が活性化するということがある。
血管がつまると病気になるが、エネルギーもつまると病気になる。東洋医学によれば、むしろエネルギーの滞りが病気を招くといっても良いくらいなのだそうだ。

近年、このエネルギーの流れを良くすることに関心が高まり、どんなカルチャースクールにも大抵「ヨガ」や「気功」の講座がある。
また、人体を取り巻くオーラを撮影できる装置は、すでに数十年も前に開発されているし、それぞれのチャクラから発せられる波動も、最近では計測できるという。

そこで、SMをエネルギー的に見た場合、どういう事になるのかということを、ちょっと考えてみたい。

M性というのは、苦痛や屈辱を与えられると、すぐに快楽物質のオピオイドが脳内にあふれ出すという特異体質のことである。
ふつうの愛撫でも快楽物質は流出するが、苦痛の刺激はそれよりももっと強力である。
「服従」状態によって、社会規範に縛られた自我の抵抗がなくなっていれば、さらに出やすくなる。

性的な結合なしに、純粋にSM的な責めだけで満足できるのは、この脳内麻薬のおかげである。
特に男性の場合、女性にくらべると性的絶頂の快楽エネルギーが少ない。
だから、無理に射精しなくても、脳内絶頂だけで充分だというS男さんも多いだろう。

しかし、女性の場合は、それを合一のエクスタシーへ転換しないのは、とてももったいない話なのである。
これは、相手の男性にとっても、実は大きな損失なのだ。

男女の肉体の結合は「陰」と「陽」のエネルギーの結合でもあり、女性が達したあと、最低でも5分間これを抱いていると(この時間には諸説ある)、男性はその素晴らしいエネルギーの恩恵に預かれる。
性行為における男性の役割は、生殖をのぞけば、女性をいかに大きな絶頂へ導くかということにある。
これは性差別ということではなく、体の仕組みがそうなっているのである。

このことは、紀元前のエジプトや古代インド、新しいところではマヤ文明などの常識で、マヤの男性達は一年もかけて、女性を性的により高める技術を学んでから結婚した。

波動の合う男女が愛し合い、互いを高めあって質のよい性エネルギーを得ることができれば、両者の細胞が活発化し、生命力があがる。
そうすると、人生からネガティブなものが払拭されて、自然と幸福になる。

反対に、合わないもの同士だと、エネルギーを喰われて運気も下がり、最悪の場合生命さえも危うくなる。

不特定多数の人とプレイをする人は、性交なしにしておくほうが無事だと思う。
SMによって生まれるエネルギーは、ノーマルな性交の時よりも強力で影響力が大きい。
所有欲を捨て、孤立感や虚無感から解放されることの重要性は、こういうところにもある。
ネガティブなものは、ネガティブなエネルギーを引きつけやすいからである。

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