佐伯香也子のブログ

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『アニスタ神殿記1』発売中

このKindle版『アニスタ神殿記1』は、三和出版『秘性』第3号から第7号までに連載されたものうち、3〜4号掲載の第一章を電子化したものである。


<あらすじ>

天空に浮かぶ巨大な島であるアニスタは、三十三人の神人(しんじん)によって守られる、閉ざされた世界だった。
農業と牧畜で暮らす素朴な人々の関心事は、毎年神人たちに捧げられる五人の神殿女の昇殿式。
今年もまた、イレナ、サレー、カリュ、ネイア、エトレという美しい乙女達が選ばれた。

しかし、神に奉仕しつつ、しあわせに暮らすものと思われていた神殿女を待っていたのは、想像を絶する拷問の日々だった。
神人たちのつくり出す気味の悪い生き物・獣人(じゅうじん)や、残酷な責め具によって、ボロボロにされる乙女たち。
それを再生医と呼ばれる医師達が元の身体にもどし、翌日もまたくり返される激しい責めと快楽。

なぜ、神殿女達は拷問されなければならないのか。
なぜ、アニスタは閉ざされているのか。
次第にあきらかになるアニスタの秘密!
濃い霧に包まれた世界で繰り広げられる、被虐と快楽の行き着く果てを描いた、壮大なSMファンタジー!

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この物語は、最初から最後まで責めが続く。そればっかりだと言ってもよい。
だが、どうか、既存のSM小説的解釈をしないでいただきたい。
それはほとんどの場合、男性原理で書かれた男性のためのものだからである。
それを一旦忘れて、できれば普通の文学として読んでみていただきたい。

文学として読むには文章が荒いとか、ストーリーが殺伐としているとか、色々ご意見はあると思う。
しかしこの作品は、圧倒的な分量の「責め」の向こう側にあるもの、男性には見えないものを見据えて描いた物語である。
M女性にとって、SMとは何を意味するのかを追求した、実験的小説である。
私は、女性として、作家として、いつもそこを目指して書いている。
そのことをご理解いただけるならば、 これにすぐる幸いはない。



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S男性の迷惑な発言

いわゆる精神的Sだと自称したり、自分のサイトにたくさん人を集めてプレイや奴隷の多さを自慢したり、オフ会をしたりして一種のカリスマ的存在になっているS男性たちの発言には、とても問題が多い。
とくに、彼らが迷えるM女性相手にする説教はお話にならない。
その論調はだいたい似通っている。

自分のわがままを捨て、主の希望が、そのまま自分の願いとなるような奴隷にならなければならない。
奴隷は主に喜んでもらえることをする。
「できない」と思うことでも一所懸命がんばる。
その姿を見て、主は奴隷を可愛いと思うようになる。
SMは恋愛とは違う。主の愛を欲しがってはいけない。
見返りを求めず、心から奉仕することが奴隷の勤めである。
主の愛を得たければ、まず自分から真心を捧げて尽くせ。
自分の願望がかなえられなくても、思うように会えなくても、主を恨んではいけない。
それも含めて耐えるのがしつけの良い奴隷というものである。


こんな言説をいつまでも許しておくから、救われないM女性が絶えないのだと思う。
M女性には「見返りを求めない愛」を要求するくせに、自分からは見返りを求めまくっている。
しかも、ご褒美に与える「主の愛」たるや、「俺の都合のいい時だけ会ってやるよ」という程度のものでしかない。

だが、迷いのあるM女性というのは、はっきりした男らしい言い方に弱い。
「お前の精神状態は今こうなっている」とか「奴隷とはこういうものだ」といったような断定をしてもらうと、それだけで安心して信頼してしまったりする。
しかし、根本的にまちがっているので、すぐにまた壁につきあたる。
主を持っても、いっこうに心が安定しないM女性が多いのはそのせいだ。

また、自分を捨てて誰かを受け入れたくてしょうがないという屈辱系のM女さんも、もちろんこういった言葉に弱いだろう。
依存傾向の強い人にはまた別の理由があるが、性癖としての屈辱系の女性たちは、最初から男性に服従する自分が大好きなのであり、そういう生き物でありたいと強く願っている人たちなのだと思う。
だが、そういうM女さんたちでさえ、だんだん「こんなのの言う事を聞いていても、いい事は何もないな」と気づいて去ってゆく。

なぜなら、説教Sたちの言うSM主従の先には何もないからだ。
早くて数週間、よくもっても二〜三年で関係は消滅してしまう。
M女さんの状況を丁寧に追っていけば、それが分かる。

ただ、ここで判断を難しくしているのは、実は、服従や奉仕の真の意味を見いだしたM女性は、たしかに彼らの言うとおりの奴隷になるということなのだ。

しかしそれは、しっかりした土台があってのことで、それ自体はM女さん自身が自分で考え、築いてゆくものだ。
主の調教というのは、たんなるきっかけにすぎない。
それを強制されて、M女性は初めて自分と向き合い、なにが自分を阻害しているのかを理解し、乗り越え、強く美しくなってゆくのである。

そうした過程もなしに、うわべだけ形を作ってやってみたところですぐに崩壊し、M女性はもっと深い闇に迷い込む。

S男性が示すべきは、結果としての「しつけの良い奴隷の姿」ではなく、そうなるためにはどうすればよいかということではないのか。
絶対服従の先には何が待っているのか。盲目的に従おうとするM女性が求めているのは、本当はなんなのか。
SMの持つ豊かな可能性をイメージし、そこへM女性を導いてやるために、自分は何ができるのかを、真剣に考えることなのではないのか。

M女が従順な奴隷となって主の責めをすべて受け入れるのは、主から愛してもらうためだというような寝言しか言えないのなら、説教なんか即刻やめるべきだろう。
 
だいたいこういう説教S男性は、女性のことがわかって言っているわけではない。
ここは何度主張してもし足りないくらいだが、自己流でたまたまうまくいったことを、なんの裏付けもなしに語っているにすぎないのだ。
一昔前の戸塚ヨットスクールみたいなもので、場合によっては効果的に働くこともあるが、すべてに応用できるわけではない。

ちょっと心理学や哲学を学べば、こうした言い方がある種のM女性の心をますます深く傷つけ、自分を見失わせるとわかるはずだ。
現に、この世界へ入ったばかりの私はひどく傷つき、生きる気力を失うほど落ち込んだ。
あっちでもこっちでも見かけるこうした言い回しに打ちのめされ、S男性というのは、女性を自分の型にはめる事しか考えず、その心をズタズタにすることを目的としている人たちなのだと思った。

女性は、男性よりもはるかに複雑な心理をかかえている。
自分を生きづらくしているものの正体に気づける人はまだいい。
心理カウンセラーの助けを借りてさえ、なかなか認められない人もいる。
まして、それを解消し、乗り越えていくのは自分にしかできないことで、その力を持っている人はそんなに多くないのだ。

それを、専門家でもないただの一般人が解決できると思うほうがどうかしている。
難しいところは全部M女性に丸投げしているから、そんなおめでたい錯覚がうまれるのだろう。

知性や教養の支えがない経験智のみの説教は、害毒になることのほうが圧倒的に多い。
特に性的なことで女性に説教しようとする男性は、よほどの勉強が必要だ。
「それは誤解だ。自分だってM女性にしあわせになってもらいたいと思っているのだ」
というのなら、もっと日本語の表現力を磨き、誤解の生じない文章を作るべきだろう。

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エネルギーワークとしてのSM

長い間、性について語る事はタブーとされてきたため、その素晴らしい可能性が知られずに来た。
だが、哲学用語の「エロス」は「生=性」の意味で使われるのであり、性エネルギーは、もともと活力の源である。

身体の隅々にまで張り巡らされたエネルギー脈の集積センターを「チャクラ」というが、性エネルギーはその一番下の第一チャクラ。つまり、会陰の部分に存在している。
これが、体の中心にある中央管を駆け昇って、頭上の第七チャクラへぬけてゆく状態がエクスタシーである。

性的絶頂を経験した事のある女性なら誰でも知っているだろうが、かなりすっきりする。一つには、エネルギーのつまりがそれで取れ、細胞が活性化するということがある。
血管がつまると病気になるが、エネルギーもつまると病気になる。東洋医学によれば、むしろエネルギーの滞りが病気を招くといっても良いくらいなのだそうだ。

近年、このエネルギーの流れを良くすることに関心が高まり、どんなカルチャースクールにも大抵「ヨガ」や「気功」の講座がある。
また、人体を取り巻くオーラを撮影できる装置は、すでに数十年も前に開発されているし、それぞれのチャクラから発せられる波動も、最近では計測できるという。

そこで、SMをエネルギー的に見た場合、どういう事になるのかということを、ちょっと考えてみたい。

M性というのは、苦痛や屈辱を与えられると、すぐに快楽物質のオピオイドが脳内にあふれ出すという特異体質のことである。
ふつうの愛撫でも快楽物質は流出するが、苦痛の刺激はそれよりももっと強力である。
「服従」状態によって、社会規範に縛られた自我の抵抗がなくなっていれば、さらに出やすくなる。

性的な結合なしに、純粋にSM的な責めだけで満足できるのは、この脳内麻薬のおかげである。
特に男性の場合、女性にくらべると性的絶頂の快楽エネルギーが少ない。
だから、無理に射精しなくても、脳内絶頂だけで充分だというS男さんも多いだろう。

しかし、女性の場合は、それを合一のエクスタシーへ転換しないのは、とてももったいない話なのである。
これは、相手の男性にとっても、実は大きな損失なのだ。

男女の肉体の結合は「陰」と「陽」のエネルギーの結合でもあり、女性が達したあと、最低でも5分間これを抱いていると(この時間には諸説ある)、男性はその素晴らしいエネルギーの恩恵に預かれる。
性行為における男性の役割は、生殖をのぞけば、女性をいかに大きな絶頂へ導くかということにある。
これは性差別ということではなく、体の仕組みがそうなっているのである。

このことは、紀元前のエジプトや古代インド、新しいところではマヤ文明などの常識で、マヤの男性達は一年もかけて、女性を性的により高める技術を学んでから結婚した。

波動の合う男女が愛し合い、互いを高めあって質のよい性エネルギーを得ることができれば、両者の細胞が活発化し、生命力があがる。
そうすると、人生からネガティブなものが払拭されて、自然と幸福になる。

反対に、合わないもの同士だと、エネルギーを喰われて運気も下がり、最悪の場合生命さえも危うくなる。

不特定多数の人とプレイをする人は、性交なしにしておくほうが無事だと思う。
SMによって生まれるエネルギーは、ノーマルな性交の時よりも強力で影響力が大きい。
所有欲を捨て、孤立感や虚無感から解放されることの重要性は、こういうところにもある。
ネガティブなものは、ネガティブなエネルギーを引きつけやすいからである。

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フロムのSM観

心理学者のエーリッヒ・フロムは、『自由からの逃走』でサディズムとマゾヒズム(支配と服従)について語って以来、ほかの著作でもくりかえしこのテーマを取り上げている。
内容を要約すると、次のようなものである。

「マゾヒスティックな人は、堪えがたい孤立感・孤独感から逃れるために、命令し、保護してくれる支配者の一部になりきろうとする。自らの責任で自己を表現し、行動する自由を捨て、自分の外にある人や物の道具になりさがる。そうすると自分で人生を切り開く必要がなくなって、生きることの重責から解放される」

「サディスティックな人も、マゾヒスティックな人と同様の理由から、他人を自分の一部にしてしまおうとする。自分を崇拝する他人を取り込むことによって、実質のともなわない自己を膨らませ、それによって自我を支える」

「マゾヒスティックな人が支配者に依存しているのに劣らず、サディスティックな人も服従する人物に依存している。両者の違いは、サディスティックな人は命令し、利用し、傷つけ、侮辱し、マゾヒスティックな人は、その対象となるというだけだ。
どちらも未成熟で空虚な自我が、自分の外部に支えを見出そうとする行為であり、これは人間としての完全性、あるいは真の意味での合一に到達しない、単なる共棲的な融合である」

要するに、SM主従というのは、一人で生きていけないお子ちゃま達が、互いに慣れ合う依存関係だというのである。

これは、とても正しいと思った。
おそらく、ほとんどのSM 者たちは、これに当てはまるだろう。

だが、わずかだけれど、例外がある。
SM的な関係は、成熟した人格の持ち主同士で成立するのである。

では、何をもって「成熟した人格」というのか。

辞書的に言えば、「自由と言う孤独に耐えられるばかりでなく、それを楽しむことができ、常に自分の内部からの発動によって行動し、自分の人生に自 分で責任をもつことができる人」というようなことになろうか。

いくつか具体例をあげると、「成熟した人」は、何か事が起きても、他人のせいにしない。
あるがままの自分を受け入れ、強さも弱さも装わない。

虚勢を張らず、自己顕示欲も持たない。

そしてまた、所有欲からも自由であるため、独占欲も嫉妬もない。

誰かを愛する時は、相手の自由と尊厳をどんな時でも尊重し、その幸福と成長を心から願う。

従って、「支配と服従」から、もっとも遠いところにいるのが、「成熟した人」なのである。

では、そういう「成熟した人々」の嗜好するSMとは、いったいどんなものなのか。



「成熟した人々」同士のSMで最も注目すべきなのは、彼らが所有欲から自由だという点である。
自らの魂そのものだけで、すでに満ち足りているのである。

だから、誰かを手に入れたくて関係を結ぶ事はない。
相手からなにか奪う事も、束縛することもない。
SMをするにしても、お互いへの真実の愛と尊敬だけがその根底にある。

そうした人々にとって、「支配と服従」それ自体が目的となることはない。
それは、真の目的のための手段であり、舞台装置なのである。

その真の目的とは何かといえば、魂の浄化と成長である。
(もちろん、愛し合うことにともなう身心の喜びというのも大きな目的であるが、それはSMをせずとも、たとえ離れていても得られるものであるので、ここではあえて取り上げない)

「なに、それ」と、鼻で笑った人は、現代社会の病理にどっぷり浸った人であるw

現代は、所有を基本とする社会だ。
地位でもお金でも人でも、より多く持っている方が優位であり、マスメディアも盛んに購買欲を刺激する。
私たちは「消費者」と呼ばれ、持たない人は焦りと劣等感に駆られる。

人生においても、世間の認める「何者か」にならないと、人間としての価値がないように思ったりする。
あるがままを認めるのは、敗北者のような気がしてしまうのだ。

つまり、満たされるためには、自分の外部の物や人にたよらなければならない。
しかも、それは果てしがない。
なにをどこまで持っていればしあわせなのかというのは、個人の主観によるからだ。

永遠の飢えと苦悩から解放されるには、所有によって自分を支えることをやめるしかない。
それには「成熟した精神」が必要であり、それはすなわち、様々な欲から解放された「浄化された魂」のことなのである。

しかし、人間である以上、完璧な解脱というのはありえない。
そんなことができたら、即ブッダになれる。
だから、日々浄化し、できるだけ成熟することが大切なのである。

SMは、既存の価値観=所有を基本とした価値観、を打ち破るための装置である。
屈辱や苦痛は、Mの魂から肉体を切り離す。
表層の自我を無にするその行為は、世俗的な縛りを解き放ち、魂が本来もっている美しさを取り戻させる。

それは一見、強者であるSによって、Mがますます弱められ、踏みにじられるように見えるが、そうではない。
SがMの幸福と成長を心から願う者である限り、そして、Mが浄化されるものとしての自覚を持つ限り、無になることはあらゆる恐れを取り除く。

死への恐れさえも退けた時、無防備でありながら、けっして傷つけられることない輝ける魂が出現する。
強者と弱者は逆転し、さらには境目さえなくなって、浄化された魂の光にすべてが包み込まれる。


ただ、人間は弱い。
いかに所有欲を去ったとはいえ、どうかすると、もとの基準で物事をとらえてしまったりする。

また、所有によらない愛情関係というのは、束縛や執着といったわかりやすいサインがない。
Sの空虚を埋めるために消費されているのではないかという疑問が、時に頭をもたげるのだと、あるM女さんが書いていた。

この高貴な精神によるSMでは、S側の利が少ないように思える。だから、いっそうMは不安になるのだろう。
所有する社会では、「確かに手に入れた」という証拠を常に提示されるため、それがない状態で何かを信じるのに、人は慣れていないのだ。

だが、Sにもちゃんと喜びがあると思う。
Mを浄化するのは、Sにしかできない。
心から愛する人を浄化してやって、うれしくないはずはないだろう。

必要なのは、自分を高く保つこと。高いままで肉体から離脱し、快楽のみを目的としないことだという。

そして、激しい嵐のように何かを奪ったりはしないが、優しい風のように包みこんでくれる真実の愛を信じることも、また、高貴な精神によるSMをする者たちの条件なのだろう。

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『コレクターズ・クラブ2 芳春』発売

オリジナル電子書籍第三弾、『コレクターズ・クラブ2 芳春』が本日発売になった。
制作の二木寸志さん(元『カルテ通信』編集長)が、とても美しい表紙を作ってくださった。

中身は「人間便器が欲しい」という妄想に取り付かれた男が、スカトロ趣味の女性と出会い、人体改造をしていく物語である。
歯をぜんぶ抜いてしまったり、骨を変形させたり、究極のハードプレイが連続する。

コレクラシリーズ1の「リナ」の時は、Kindleに送ってストアにアップされるまで7時間くらいだったのに、今回は一日半かかった。
一時は発禁かと心配になったw

エグイばかりじゃありません。
きちんとストーリーでも読ませます。
「リナ」ともども、よろしくお願いいたします。



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