佐伯香也子のブログ

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『机の下の楽園』(上)(下)発売

幻の名作(と自分でいうのもなんだがw)『机の下の楽園』が上下巻で発売中!
実を言えば上巻は5日発売だったのだが、下巻はついさっき(午前9時)Kindleストアに並んだ。

2010年発刊の『佐伯香也子小説集1』(絶版)所収の作品で、今は電子書籍でしか読む事ができない。

若き翻訳家の久我と子猫のようなミュウ、そして二人の友人である佐久間とアキによって繰り広げられる、今までになかったタイプのSM純愛小説である。
というか、男性には絶対書けないSM小説だと自負している。

プレイシーンはもちろん、物語としてもたっぷり楽しめるように書いた。
SM小説としては私の2番目の作品で、今とはまた違う情熱がほとばしっているw
ちょっと恥ずかしくもあるが、是非多くの方に読んでいただきたい思い入れのある物語である。





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女性の正体2

まず考えてみたいのは、私が自覚しているこのM性とはいったいどういうものであるのかということである。

しかしそれを考える前に、私は自分の空虚を埋めるために誰かに依存したがっている人間ではないということを明言しておきたい。
これは、所有欲や独占欲からの考察ではないということである。
男性的な価値観によらないで、女性としての自分を純粋に見つめてみた。

まずは、先達の意見を聞いてみよう。
最初はフロイト(1856~1939年 オーストリアの精神分析学者)である。
彼は、サディズムとマゾヒズムは人間関係の基本であると述べている。

つまり、相手を理解しよう自分を理解してもらおうと思えば、自分を無にして相手の言う事をよく聞いたり、逆に自分はこう思うと主張したりする。
そうやって能動性と受動性のくり返しによって人間関係が形作られていくのであるから、いわゆる「SM」は、特別な性倒錯とは呼べないだろうということを言っている。

そしてラカン(1901~1981年 フランスの哲学者、精神科医)は、この世の享楽(ただの快感より激しいもの)を「ファルス的享楽」「余剰享楽」「他者の享楽」という3つのカテゴリーに分けた。

「ファルス的享楽」とは、「無意識に蓄えられたエネルギーを部分的に沈静化するために放出されるエネルギー」のことを言い、男性の射精はこれにあたる。
「余剰享楽」は、「心の中に放出されぬままたまっているエネルギー」のこと。これは男女両方が持っている。
「他者の享楽」は、自分の「主体性を完全に放棄し、対象をまるごと深く受け入れる(=関係する)ことから生ずる」エネルギーである。この場合、すべての緊張は完全に解放され、理想的な状態となる。
この「他者の享楽」こそは究極の快楽であり、女性的な享楽はこれに近いという。

また、ヴァイニンガー(1880~1903年 オーストリアの哲学者)はこう書いている。
「女は性的なだけで、しかも完全に性的である。その性現象は肉体の全体に広がり、中には物理的な言い方をすれば、他の部分に比べて性現象の密度が非常に濃いところがいくつかある。女は性的な影響を受け、すべてのものに貫かれる………常に、そして肉体のすべての表面において。交接と通常呼ばれるものは、単に最も激しい特別な場合を指しているだけだ。」
女性蔑視的な表現が多いので首を絞めたくなるが、墓から遺体を引きずり出すわけにもいかない。
しかし、ここには、一面の真実があると思う。

以上三氏の説に、私の実感を重ね合わせてみる。

女性が「性的な身体」を持つ性であり、その快楽は「受け入れる」ことによって成り立つというのは、そう間違っていないと思う。
それは、つまり、M的な享楽である。
女性は自己を一端手放し、相手を丸ごと受け入れる事によって、男性には及びもつかない完全にして究極の快楽を味わうことができる。
そして、ヴァイニンガーの言うように、女性はそれを全身で行う。

もちろん、すべての人間は男性性と女性性を併せ持っているし、性の感受性は人それぞれ違う。
また、後天的な刷り込みによって、本質が隠されている場合もある。
だから、女性のすべてが受容によって快楽を得られるとは限らない。
一見様々な方法によって快楽を得ているように見える。

しかし、その快楽を求めさせるものは何かという根本部分を探求していくと、見えてくる共通項がある。
それが、私がこれから明らかにしたいと思っていることである。

たとえば私が針プレイのシーンを描く場合、それは痛みよりも、むしろ入ってくる感じのほうを主に感覚しながら書いている。
つまり「針」は「男根」のメタファーなのだ。

私は全身を性の受容体として感じ、男性の視線さえ「男根(ファルス)」として認識してしまう。
生のペニスをイメージするということではなく、力としての「牡」を感じとるのだ。

このように、生身の肉体への刺激がなくても、意識界でリアルに感覚することができるような女性にとっては、肌で感じる刺激すべてが「象徴的男根」に変換可能となる。

少なくとも私は、プレイによる「痛み」を文章で表現するとき、それを激しい快楽として感じながら書いている。
つまり、意識界にある全身が「痛み=男根」に犯されている状態なのだ。

また、絶対服従状態を描くときには、心のすべてが開かれ、相手(登場人物のS主)へと吸い込まれて行く。
肉体がどんなに破廉恥な行為をしようとも、心はそこから遊離し、主の一部として安らいでいる。

服従する事によって、相手の歓心を買おうというのではない。
服従すること、それ自体が目的なのである。
それは受容の最終形といっても過言ではなく、それによって生まれる一体化の歓喜というものは、他では味わえないほど深い。

痛みを描く時も、絶対服従を語る時も、そこには、ただ、ただ、息苦しいほどの快楽だけがある。

作家の妄想力を、普通レベルで捉えてはいけない。
読者の脳裏に、ありありと情景が浮かぶように描くための妄想は、私にとってまぎれもない「現実」(バーチャルリアリティ)なのである。
自分の身体には指一本触れず、妄想だけでやすやすとエクスタシーに至るほど、その力は強い。

最初の問いに戻ろう。
私が自覚しているM性とはどういうものか。

それは、性的にひどく鋭敏な身体感覚であり、究極の受容性である。
そして、受容による「他者の享楽」を極限まで味わいたいという、人並みはずれた強い欲望である。

ひとまず、ここまでは言える。
しかし、それは「他者」を必要としているため、多くの矛盾を生み出す。
その矛盾こそは、女性の本質へ至る鍵である。

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女性の正体1

「女性」とは、いったいなんであろう。
身体的特徴や遺伝子や脳の話ではない。
そういうものではカバーしきれない概念のことである。

フロイトは、どうにも表現のしようがなくて、
「女性が何であるかを記述することは精神分析の仕事ではない」
と言い、ラカンはそれをもっと突き詰めていって「女は存在しない」と言った。

どういう事かと言えば、男性がどういうものであるかは言葉で説明できても、女性は定義付けられないのだ。
「〜でない」といった言い方でしか言い表せないため、そのすべてを説明できない。説明できないから「女は存在しない」としか言えなくなる。

詳しい理論の説明をしていると煩雑になるので省くが、精神分析や哲学の場で、「女性」というものや「女性の欲望」については、いまだにこれといった定義がなされていない。
もう一度繰り返すが、できないのだ。

だから、昨今流行の脳科学とか、遺伝子や本能とかで説明されているものは、まったくのでたらめか、ほんの一部の真実でしかない。

多数の女性と関係してきた男性の語る「女って言うのは〜」という言い回しも、女性の本質を言い当てているわけではない。
言わせてもらうならば、「全然分かってないのに、知ったふうな口をきいている」ということなのである。

また、よく「僕が貴女のM性を解放してあげます」と言ってくるS男性がいるけれど、こうした男性達が思っているほど女性のM性は単純ではない。

これは断言してもいいが、テクニックでどうにかできるようなものではない。
女性は男性の認識を越えているのである。
つまり、男性が女性を理解することは、その逆よりも難しいのだ。

今ここで言えるのは、「女性は男性の外部にある認識外の存在」だということである。


これから、その続きをゆっくりと語っていきたいと思う。

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