佐伯香也子のブログ

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フロムのSM観

心理学者のエーリッヒ・フロムは、『自由からの逃走』でサディズムとマゾヒズム(支配と服従)について語って以来、ほかの著作でもくりかえしこのテーマを取り上げている。
内容を要約すると、次のようなものである。

「マゾヒスティックな人は、堪えがたい孤立感・孤独感から逃れるために、命令し、保護してくれる支配者の一部になりきろうとする。自らの責任で自己を表現し、行動する自由を捨て、自分の外にある人や物の道具になりさがる。そうすると自分で人生を切り開く必要がなくなって、生きることの重責から解放される」

「サディスティックな人も、マゾヒスティックな人と同様の理由から、他人を自分の一部にしてしまおうとする。自分を崇拝する他人を取り込むことによって、実質のともなわない自己を膨らませ、それによって自我を支える」

「マゾヒスティックな人が支配者に依存しているのに劣らず、サディスティックな人も服従する人物に依存している。両者の違いは、サディスティックな人は命令し、利用し、傷つけ、侮辱し、マゾヒスティックな人は、その対象となるというだけだ。
どちらも未成熟で空虚な自我が、自分の外部に支えを見出そうとする行為であり、これは人間としての完全性、あるいは真の意味での合一に到達しない、単なる共棲的な融合である」

要するに、SM主従というのは、一人で生きていけないお子ちゃま達が、互いに慣れ合う依存関係だというのである。

これは、とても正しいと思った。
おそらく、ほとんどのSM 者たちは、これに当てはまるだろう。

だが、わずかだけれど、例外がある。
SM的な関係は、成熟した人格の持ち主同士で成立するのである。

では、何をもって「成熟した人格」というのか。

辞書的に言えば、「自由と言う孤独に耐えられるばかりでなく、それを楽しむことができ、常に自分の内部からの発動によって行動し、自分の人生に自 分で責任をもつことができる人」というようなことになろうか。

いくつか具体例をあげると、「成熟した人」は、何か事が起きても、他人のせいにしない。
あるがままの自分を受け入れ、強さも弱さも装わない。

虚勢を張らず、自己顕示欲も持たない。

そしてまた、所有欲からも自由であるため、独占欲も嫉妬もない。

誰かを愛する時は、相手の自由と尊厳をどんな時でも尊重し、その幸福と成長を心から願う。

従って、「支配と服従」から、もっとも遠いところにいるのが、「成熟した人」なのである。

では、そういう「成熟した人々」の嗜好するSMとは、いったいどんなものなのか。



「成熟した人々」同士のSMで最も注目すべきなのは、彼らが所有欲から自由だという点である。
自らの魂そのものだけで、すでに満ち足りているのである。

だから、誰かを手に入れたくて関係を結ぶ事はない。
相手からなにか奪う事も、束縛することもない。
SMをするにしても、お互いへの真実の愛と尊敬だけがその根底にある。

そうした人々にとって、「支配と服従」それ自体が目的となることはない。
それは、真の目的のための手段であり、舞台装置なのである。

その真の目的とは何かといえば、魂の浄化と成長である。
(もちろん、愛し合うことにともなう身心の喜びというのも大きな目的であるが、それはSMをせずとも、たとえ離れていても得られるものであるので、ここではあえて取り上げない)

「なに、それ」と、鼻で笑った人は、現代社会の病理にどっぷり浸った人であるw

現代は、所有を基本とする社会だ。
地位でもお金でも人でも、より多く持っている方が優位であり、マスメディアも盛んに購買欲を刺激する。
私たちは「消費者」と呼ばれ、持たない人は焦りと劣等感に駆られる。

人生においても、世間の認める「何者か」にならないと、人間としての価値がないように思ったりする。
あるがままを認めるのは、敗北者のような気がしてしまうのだ。

つまり、満たされるためには、自分の外部の物や人にたよらなければならない。
しかも、それは果てしがない。
なにをどこまで持っていればしあわせなのかというのは、個人の主観によるからだ。

永遠の飢えと苦悩から解放されるには、所有によって自分を支えることをやめるしかない。
それには「成熟した精神」が必要であり、それはすなわち、様々な欲から解放された「浄化された魂」のことなのである。

しかし、人間である以上、完璧な解脱というのはありえない。
そんなことができたら、即ブッダになれる。
だから、日々浄化し、できるだけ成熟することが大切なのである。

SMは、既存の価値観=所有を基本とした価値観、を打ち破るための装置である。
屈辱や苦痛は、Mの魂から肉体を切り離す。
表層の自我を無にするその行為は、世俗的な縛りを解き放ち、魂が本来もっている美しさを取り戻させる。

それは一見、強者であるSによって、Mがますます弱められ、踏みにじられるように見えるが、そうではない。
SがMの幸福と成長を心から願う者である限り、そして、Mが浄化されるものとしての自覚を持つ限り、無になることはあらゆる恐れを取り除く。

死への恐れさえも退けた時、無防備でありながら、けっして傷つけられることない輝ける魂が出現する。
強者と弱者は逆転し、さらには境目さえなくなって、浄化された魂の光にすべてが包み込まれる。


ただ、人間は弱い。
いかに所有欲を去ったとはいえ、どうかすると、もとの基準で物事をとらえてしまったりする。

また、所有によらない愛情関係というのは、束縛や執着といったわかりやすいサインがない。
Sの空虚を埋めるために消費されているのではないかという疑問が、時に頭をもたげるのだと、あるM女さんが書いていた。

この高貴な精神によるSMでは、S側の利が少ないように思える。だから、いっそうMは不安になるのだろう。
所有する社会では、「確かに手に入れた」という証拠を常に提示されるため、それがない状態で何かを信じるのに、人は慣れていないのだ。

だが、Sにもちゃんと喜びがあると思う。
Mを浄化するのは、Sにしかできない。
心から愛する人を浄化してやって、うれしくないはずはないだろう。

必要なのは、自分を高く保つこと。高いままで肉体から離脱し、快楽のみを目的としないことだという。

そして、激しい嵐のように何かを奪ったりはしないが、優しい風のように包みこんでくれる真実の愛を信じることも、また、高貴な精神によるSMをする者たちの条件なのだろう。
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