女性は「男の欲望をかき立てる体」と「自分を放棄して男を受け入れる従順な心」という矛盾したものを求められる。
ラカンの言う「他者の享楽」(主体性を完全に放棄し、対象をまるごと深く受け入れることから生ずるエネルギー。すべての緊張は完全に解放され、理想的な状態となるこの「他者の享楽」こそは究極の快楽であり、女性的な享楽はこれに近い)が女性の生得の快楽である限り、それは仕方のないことであるのかもしれない。
しかし、とてもやっかいな問題だし、これによって自己崩壊する場合もある。
そして、そのやっかいさが、もっとも良く現れるのがSMなのではないかと思う。
その辺りを詳しく語ってみたい。
通常、男性は性の場における主体=能動体であり、女性=受容体を所有と性交の対象として見る。
女性はそれを屈辱だと感じる一方で、男性に愛されることを望んでもいる。
だから、可愛い女を目指し、モテ服をチェックし、「男の子は女の子のこういうところを見ている」とかいうコラムにストレートに反応してしまう。
両親のしつけの厳しさというのも、どこにだしても恥ずかしくない「娘」にするためのものであり、そこには大抵「男性にとって好ましい」という但し書きが隠れている。
このような矛盾を生きなければならない女性は、つねに、どこか、憂鬱であるということは、心理学でも言われることである。
そしてこれは、「受容体」であることをやめない限りついてまわる、つまり、死ぬまでつづく本質的な「憂鬱」でもある。
しかし、Mというのは、相手のすべて受け入れるために自分の欲望や自由を犠牲にするということを、進んでしたがる生き物でもある。
あるM女さんのブログから引用させてもらおう。
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M女は、基本的に服従したいと思っている。
それによって得られる快楽を求めているから。
M的な欲望が肥大して、切羽詰まっている女性は
ただ闇雲に「支配されたい、奴隷になりたい」
と思っている。
だから、いかにも主らしく振る舞う男に、
反射的にしたがってしまう。
それがつまらないS男で、そのために
生きて行くことがつらくなったとしても、
それに耐えることが奴隷のつとめなんだと思ってしまう。
もう少し余裕があると、服従するのに
ふさわしい男性じゃないとイヤだと思う。
しかも心底愛されていないと、
とてもすべてを明け渡すことなんてできないと感じる。
うまくふさわしい男性に出逢えたとしても、
そこで、また疑いを抱く。
「愛しているから望みの苦痛を与えてやりたい」
のではなく、
「単に屈服させたいから、愛している振りをしている」
のではないか、と。
プレイでしあわせにしてもらっても、
翌日にはもう疑いが襲ってきて、
すぐに会って確かめたくなる。
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ここには、M女性の憂鬱が集約されているように思う。
もう一度思い出していただきたいのは、「2」で書いたように、フロイトが「SMは人間関係の基本だ」と言っていることである。
「相手を理解しよう自分を理解してもらおうと思えば、自分を無にして相手の言う事をよく聞いたり、逆に自分はこう思うと主張したりする。
そうやって能動性と受動性のくり返しによって人間関係が形作られていくのであるから、いわゆる「SM」は、特別な性倒錯とは呼べないだろう」
そうしてみると、SMというのはノーマルな恋愛関係よりも、ずっと大きなくくりになる。
SMはノーマルに内包された性倒錯なのではない。
むしろSMのほうが、「ノーマル」を抱え込んでいるのである。
つまり、支配被支配の欲望というのは、人間の根幹から発しているわけである。
このことを考慮すると、SMの服従プレイが愛ゆえの行為なのか、人間として、ただ、誰かを屈服させたいだけなのか区別する事は難しいように思う。
Mとして服従するとなると、自分のすべてを無条件に捧げなければならない。「ただ支配する事だけが目的ではない」ということを、どうやって相手に確かめたらいいのか。
また、仮に、それが愛抜きの関係だったとして、ではどこまで自分を明け渡せばいいのか。
それよって得られるものに、果たしてどんな意味があるのか。
服従による絶大な快楽が欲しいのに、ただ踏みつけにされるのは死んでもイヤだというM女さんは、きっととても多いと思う。
SMは気持ちいいことの筈だと思っているS男性に、このM女の葛藤がいったいどこまで理解されているのだろう。
SM関係を維持する上での最大の難関は、この理解の有無なのではないだろうか。
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